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昭和42年02月09日 朝のご理解



 人間は誰でもだいたい同じでしょうが、本当に弱いもんです。例えば学生が学校行って勉強する。学生が勉強するということはもう、学生の本分なのですけれども、なかなか勉強いたしません。それでもやっぱり試験があると言うと寝なしにでも、勉強いたします。してみるとやはりあの、試験から試験。生徒は好かんのですけれど、やはり先生としても、試験から試験をしなければ勉強しないから試験する。
 試験があるから勉強する。勉強しないから試験をすると言った様な事でまあ、勉強しておる学生が多いのじゃないだろうかとこう思います。折角高い授業料を出して勉強しておるのでございますから、本当にこちらから求めて勉強に専念する。それが学生の本分でありますように。折角信心させて頂く者もですこうやって、毎日通うてきて言うなら高い月謝以上の月謝を皆さん払うて、ここに参ってお見えなのでございますから。
 信心のけいこを本気でなさらなければ、馬鹿らしいです。どうぞ、おかげを頂かせてくださいと言うて願うておるのですから、神様が本当に信心を分からせたいために、やはり試験から試験、があるのじゃないでしょうかね。いわゆる難儀があると尻に火が付いたようになってくると、その信心が熱烈化してくる。何かお願いせんならんと言うた時にはもうそれこそ一生懸命なる。
 もうおかげを頂いて、平穏である、無事であるというと、信心がだんだん、思うちゃおりますけれどもというようなことになってくる。いわゆる、悲しい時の神頼み的なことに、なりがちなのが、まあ、人間の弱さと言えば弱さなんですけれどもです。そこに一つ例えば、その好きになるということ。学生が勉強の方法を体得いたしますとです、勉強することが好きになる。
 学問が身に付いていくことが楽しゅうなる。信心もそうです信心が好きになる。徳が身に付いていくということを、自分でも感じれるくらいにそれが楽しゅうなる。というところまでだからお互い信心は、好きにならなければいけないということを、思いますですね。皆さんどうでしょうか好きで好きでたまらん。それが有り難いそれが椛目通いという人なら必ず信心が上達いたします。
 徳を受けます。けれども参らなきゃおかげ落とそうごたる。いや苦しいことがあるから参りよる。いやお伺いせんならんから、お参りをしているというようなことでは、というてほんならお互いの心の中にはです、天地の親神様は「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのですけれども、その私どもは何かおかげを頂かなければならない、よい試験があると、その、勉強するように。
 何かそこに難儀な問題が起こってこなければ、信心がその熱が入ってこないと。そこで、人間のその私どもの願いのそこに、おかげを頂きたいという願いは切実に持ってるのでございますから。また神様も切実におかげを頂かせてやりたい、徳を受けさせてやりたいという切実な願いが、自ずと自然試験試験ということになってくるのじゃないだろうかと。お試しということになってくるのじゃないでしょうか。
 または難儀ということになってくるんじゃないだろうかとこう思うのです。ですからまず一つ、信心が好きになる手立てというものを、まず講じなければいけないということになります。信心が好きになる。昨夜のご祈念そこの椛目の宮崎さんが、夫婦で朝晩お参りになります。四、五日前だったでしょうか、夜のご祈念に参って見えてから、神様にお知らせを頂いておられる。
 それがあのご祈念をなさっておられたげなら、目の前にですね、もう様々な庭園ですねお庭です。それが綺麗にその一つ一つがその、個性のある庭園とでも申しましょうかね、洋風のもあればやっぱ日本風のもあるといったような、その庭園の様々な情景をご心眼に頂かれました。先生どういう様なことでしょうか。そうですねえやっぱりあの庭園をきれいにするためには、どうしても日々のやはり手入れが大事。
 庭にはまず何と言うても、時代がつかなければと言われる。特に日本の庭園には年数がいると、時代がつかなければ、いけないと言われておりますが。その時代がつくということもさることながら問題は手入れが大事。どんなに時代がついとるでも、手入れをなしにしておったら、それこそ、野やら山やら分からんようになってしまいましょう。やっぱり、日々の手入れが大事。
 ためにはやはりその好きにならなければ駄目。庭をその扱うたり植木を扱うたり。肥料をやったり草を取ったりといったようにです、でなかったらいつもきれいな庭園ということは望まれません。しかも様々である。ですから私共は信心もやはりその、庭園の手入れのようなものじゃないでしょうか。しかもいくつも庭園その庭園を持っておるというようなものじゃなかろうかというような、ご理解を頂かれてからです。
 先生あのことを頂きましてから、以来このかたもうどこへ行っておっても、どこへおっても、そのことを感じます。昨日も畑へ出らせて頂いたんですけれども、畑の中ではあここで一つ、の手入れをさせて頂こうとこう思うた。畑の草を取りながら、畑を耕しながらです。私の心の状態というものをまず見てみる。心の庭園というものをです、言わば、畑に出ておれば畑に出ておるところの、畑の庭園。
 畑の言わば御用をさせてもらう、心の使い方というものが、必要であるということを思う時にです。草を取る手にも鍬を持つ手にも、やはりそのことを思わんわけにはなりません。うちで勝手の方、炊事の方をさせて頂きます時にも、包丁一つ持たせて頂く手にでもたき物、いわば差しくべながらでもですここに庭園の手入れということを思いますとです。もう私のだから行くところ行くところ、あるところにです。
 もう様々な庭園が、いくつもあるような感じでございます。それが日々手入れしておるとですここ四、五日、何かしらん楽しゅうなりましたということを言うておられます。子供との関係のこと姑親との関係のこと、夫婦主人との関係のことその場その場に、その庭園作りのことを思わせて頂くとこう言うのです。そしたらこの頃そのことが楽しゅうなりましたと。私はこういう精進から信心が好きになれれると思うですね。
 お願いした時だけお参りしておる時だけ、というのではなくてです。家庭の生活の中にです様々な庭園作り庭造りといったような気持ちでおらせて頂くところにです、こういう思い方で良いのであろうか、今こうしておるけれど、これで神様の機感にかなうことであろうか。自分の思うておることじゃろうか。こげなとじゃ神様が喜びなさるまいという自分の小さい思い一つの上にも、心をかけさせて頂くとこういうのである。
 そしたらこの頃、楽しゅうなりましたとこう言うこと、いわゆる、信心が好きになってくる訳ですね。教えを言わば本当に、行じさせて頂くことの楽しみというものがです。私はその信心をいよいよ好きにすることではなかろうか。それを育てていくことが信心というのではなかろうか。お互いおかげを受けたいという願いは切である。そんなら神様もやはり切である。おかげを受けさせたいという願いが切である。
 ためにはどうでもここにです、神様を思い氏子を思い、思い思われるというところが要るのです。それがお願いする時だけ思い出す、と言った様なもんじゃなくてです。いわゆる「思い出す様じゃ惚れよが薄い、思い出さずに忘れずに」と言った様なです。私は信心状態というものをまず願わなけれならないと思う。どうぞ一つ皆さんおかげを頂かせて頂きましてですね。神様も好き好んで修行をなさるのじゃありません。
 神様は好き好んで難儀を与えなさるのじゃありません。けども氏子の願いが切であれば切であるほど、その神愛の現われがです試験ともなりまたは難儀の形をとって、その事を通して信心を解らせたい徳を授けたいという、神様の願いがでけて来るのですから。私に今この難儀が無かったらいま恐らく、椛目通いをしとらんのかもしれん。いや今の様に熱心には参らんじゃろう。と例えば心にそういうふうに思い当たる方があるならです。それではです、例えば。
 おかげを頂いた暁の事が思いやられる。必ず信心が緩むですから今のうちにです、信心が好きになる手立てを、私は施さなければならん。今のうちにですこうして一つの難儀なら難儀を感じておる間にです、信心が好きになるおかげを頂いておかなければならん。心の、様々な庭園作りの楽しみ、そういう喜びというものを、私は信心が好きになる、一番の手立てではなかろうかというふうに思うのです。どうぞ信心が好きになります様に、
   (テープ切れ)